戦後日本の保育所づくり運動 by 松田道雄
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松田と保育の研究に長年取り組み、自身もまた保育を通して地域デビューを果たしたという立教大学教授の和田悠さんにインタビューした。松田の思想や保育運動を丹念に追う研究が、和田さん自身の保育経験や市民活動と重ね合わさることで、新たな解像度で保育の「豊かさ」が映し出されていくことだろう。
──松田を知らない世代も、知らず知らずのうちに松田的な育児観に共感している可能性があるのかもしれませんね。
松田の文体って、「母親は自分のしつけ方がいけなかったのだと思うことはない」だとか、「共ばたらきは、男と女とが助けあわないとやっていけない」といったようなテンションの断定調なんですよね。だからこそ、子育てで迷ったり不安になったりする人たちの心に刺さるのだと思います。
──そんな町の小児科医である松田道雄が、なぜ保育に目を向けたのでしょうか?
松田の周りには京都大学の知識人のネットワークがあって、松田の小児科に来るのも京大出身者や京大の教員の家族など、いわゆる都市新中間層と呼ばれる人たちでした。高度成長期になると、だんだんと結核が”死に至る病”ではなく治る病気になり──あくまで松田がいたエリート層の世界での話ですが──松田の小児科へ寄せられる相談、あるいは家庭が抱える問題も、結核のような医学的な努力を必要とするものから、子育てやしつけ方法などへと質が変わっていくわけです。
小児科医をやっていたら、だんだんと子育ての相談を受けるようになっていったとのこと。おもしろい。
当時のソ連の政治体制については慎重になりながらも、松田はそこで展開されている乳幼児保育の社会化、そして0歳児からの集団保育を高く評価しました。そして、いかに子どもの健康な育ち方を保障するかという観点から、「集団」というものが大事だと考えるようになります。わかりやすく言えば、「子どもが友だちをどうつくるか」ということですね。ある種の文明病にする対応として保育に希望を見いだした松田は、1960年代から保育運動に関わるようになります。
戦後の日本で保育運動を展開していた松田さん、令和の日本を生きる自分と話が合いそうなんだよな。これくらいの時代にすでにこういう考えを持って活動していた人がいたんだなあ。ぜんぜん知らなかった。
松田はこうしたイデオロギーを明確に批判しています。松田が母子密着の育児に強く危機感を持った理由のひとつには、親の過干渉があったと思うんですね。松田は密室の「濃厚保育」と言っていますが、高度成長期の子育ては、狭い住宅のなかで母子密着となり、対等ではない力関係のなかで行われ、子どもが抑圧されていると。子どもには子どもなりの人格があって、子どもとして尊重され、子どもが自分の世界をもてるようになるということを、すごく大事にしていました。だから逆に言うと、変に子どもを甘やかしたり、子どもを子ども扱いしたりすることも非常に嫌ったようです。
保育士に関しても、保育士はお母さんの代わりではなく、あくまで専門性がある職業だと考えていました。「自分には子育ての経験がないのに乳児なんか見られるのだろうか」という保育士さんの不安に対して、松田は「保育はお母さんの延長でできるものではない」と言います。「保育」という人格を育てる大事な営みは、専門職によって担われなければならないと。そういう発言をすることで、保育あるいは保育士の社会的地位を向上させようとしました。
保育士の専門性に対するリスペクトが感じられていいな。 そのためマカレンコ教育学に対するアンチテーゼとして、松田はルソーの『エミール』を引き合いに出すんですね。『エミール』は家庭教師の物語なんですが、家庭教師で集団保育を正当化する、というのが松田の面白いところ。「集団」があって「個」があるのではなく、まず「個」があって、「個」の差異や自由が尊重される「集団」はどう形成されるのかを考える。ある意味では矛盾を持ちながらも、「個」と「集団」を両立させていく。当時はなかったことばですが、いまだったら松田は「公共性」と言うかもしれません。
個人と集団に対するスタンスも、ぼくは共感を覚える。こんな人が 1960 年代にねえ、知らなかった。